文字の洪水に溺れながら

人生初心者、でも人生のハードモードぐらいを生き抜きたい人間。

ブログ書くのが割合好きだった就活生が、ブログを書いていない理由

見ての通り、更新がストップしています。

ただ、書きたい事は山ほどあるんです。
でも、自らの中で「ブログを書く」という順位が高くしてはいけないと結論付けているせいで、更新が止まっています。

就活と言う人生の岐路の真っただ中で、
現段階で自分がかけられるリソースを考えた時、
正直、ブログにかまけている暇はないと判断しました。

いや、かまけるという書き方は正しくないですね。
ブログは僕にとっては自己表現の大切な場です。
しかし、これは趣味であるとも思っています。

自分の人生を決めるときに、
ましてや、それが社会人になるという「仕事」を取りに行く過程の時に、
自身の享楽のための「趣味」にリソースを注いでしまうのは、
めちゃくちゃもったいない事だと考えています。
今は逃げてはいけない時だと思うのです。

僕には師匠と仰いでいる方がいますが、
その方も、忙しい時には趣味を逃げ道にするのではなく、
ブログの更新を控えて、全力で仕事にコミットしています。
そして、そう生きる事が格好いいと僕は学びました。

きっと、僕がまた記事を書くのは
ひとつ大きなやり遂げた事を報告できる時だと思います。

その時に、またご覧になってくださる方がいれば、
どうぞよろしくお願いします。

本がない本屋とか素敵じゃないですか?

ニートの19歳女の子を札幌『紀伊国屋』に連れてったら感動して泣かれた話
http://e0166.blog89.fc2.com/blog-entry-408.html

だいぶ前に流行ったエントリなんだけど
この頃、電子書籍に興味をもったという前提で読み直したとき

逆に本屋と言うのは、ほぼ全ての本が平等であり、どれを買うかは本人が調べ、考え、選び、そして購入に至ります。

本屋の面白さはここにあると私は思っています。

ここの部分に物凄く興味を惹かれました。
電子書籍なのに、ネット上ではない本屋さんを作ってみたいと、
漠然と思ったのはこういった理由があるからなのだろうか。

自分の中でも、上手く整理は付けられてないですが、
電子書籍と何らかの形で関わっていきたいなぁ。

選択肢を広げる事だけでは幸せにはなれない

はじめに

この記事は人生の岐路の選択をする事に前向きになれない人のために書きました。
つまり自分へ向けての励まし書きです。別に誰かを批判したいとかそういう目的は一切ないです。

教育とは選択肢を広げる事?

突然ですが日本の教育システムはほとんど選択肢を広げるためにできてます。これは経験談です。*1

さすがにもう、

良い高校に入って
良い大学に入って
良い会社に入って
良い生活を送るのが幸せなんだ

なんて言う価値観を堂々と言われなくはなりました。が、それでもこの考えはまだまだ生き残っている気がします。
そもそも十数年前にはこの考えは真理でしたし、簡単に変化する訳もないでしょう。今では堂々とみんなが言わなくなっただけであって、まだまだ日本人の多くの前提として存在していると私は感じます。

更に言うと、教育システムはこの無言の要求にしっかりと反応しています。

できる限り、良い高校、良い大学、良い会社という安定したロードに行かせる事が優秀な教育機関であるとの認識の下、各教育機関(中学校とか高校とか)は、次の教育機関(高校とか大学とか)への進学実績をアピールしています。多くの人も、教育機関の中で何を学べるのかというよりは、次の教育機関に繋がるかという観点で判断します。

ここでは「いや、次の教育機関に進めるだけの教育水準があるかどうか」が教育の質と同値であって、進学実績をアピールすることは学びを深めている結果なんだ、という反論があるかもしれません。実は僕はこの考えに否とは言いません。これまで書いてきておいてなんですが、僕は今の教育機関に文句を言いたいからこの記事を書いているわけではありません。

僕が今言いたいことは、そのように考えても考えなくても、今の日本国民の前提には「より優秀な人間になれれば、優秀な場所に行けて、より幸せになれる」というロジックが存在しているという確認です。

「より優秀な人間になれれば、優秀な場所に行けて、より幸せになれる」

この考えの根底には「優秀な人間になれれば選択肢が増える」という前提が隠れているんだろうと感じています。
確かに大卒と中卒ではとれる選択肢はぜんぜん異なります。(世間一般的に)優秀であればこそ成功する確率が高い選択肢を選べるようになるのは事実だと思います。*2

選択肢を増やす選択肢

前置きが長くなりましたが、やっと今回の記事の主役、「選択肢」にたどり着けました。
前項でも確認したように、日本では選択肢が増える=優秀である、という風潮があります。

そのため「良い選択肢=選択肢を広げる選択肢」という不文律がおのずと出来てしまっているのではないでしょうか。

確かに選択肢を広げるという選択はとても魅力的です。

実際はしていなくても、選択肢をもっているというだけで人はある程度満足します。

「俺だって本気を出せば、あんな事ぐらいできる」「やろうと思えば、あれはできる」といった一種の全能感に近いものがあると思います。更に少し面倒くさいのは、その選択肢を広げるためにはそれなりの努力を強いられるために、そこにプライドを持ってしまうことが多いと言うことです。先述したとおり、日本ではたくさんの選択肢をgetしようとすれば優秀な教育機関に進む必要があります。

そして実際に努力の果てにたくさんの選択肢を手に入れた人間は究極の手段と目的の勘違いを起こします。

それは

選択肢が多いことが幸せである。

といった誤解です。

違います。

僕らは幸せになるために選択肢を広げたはずです。

幸せになる=目的
選択肢を広げる=手段
 です

それなのに、選択肢を広げることに心血を注いだ人は(そして日本の今の制度だと先述したとおり自然とそうなるようにできていると思いませんか?)選択肢が広がる=幸せ=目的と混同してしまいがちです。

選択をするという恐怖

そのように「選択肢が多いこと」が幸せであるという勘違いを起こしてしまった人は、選択をすることを恐れます。当然ですよね、だって選択をしたら選択肢が多いという幸福状態から離れてしまうのですから。

正直な話、僕もまだこの思いはまだまだ多大にあります。就職活動が実際に始まって、自分の働きたい業界を決めなくてはいけない、どんなライフプランを選ぶのか決めなくてはいけない、何に価値観を定めるのか決めなくてはいけない。そういった選択をするという事はものすごく勇気がいります。

それでも、それでもやっぱり、選択肢を広げることは選択をするために広げているはずですよね。
選択肢を多くする、多い状態であるというのは、次の段階のための準備でしかないはずです。

自分が今まで広げてきた選択肢を信じて、選択すること。
そして、今まで選択肢を広げることに向けていた努力を、選択した事に向けること。
これをして初めて、選択肢を広げるという行為が幸せに繋がるのだと思います。

あなたは今、選択をすることを先延ばしにして、選択肢を広げるという選択に逃げてはいませんか?

*1:日本のと銘打っているのは単純に日本しか知らないからです。他の国は違うのかもしれないですし、違わないかもしれないです

*2:余談ですが大学生が勉強をしなくなったというのはここにも原因の一つがあるように感じます。日本の学生のほとんどは学びを深めたいから進学するのではなく、選択肢を増やしたいから進学しているのではないでしょうか。(いうなれば大卒という資格をとるため、という奴です)

記憶の外部メモリ化は学生の本分とは合わないのかもしれない

そんな事をこの頃、思ったりしてます。

まず学生っていうのは主に大学生をさしてるんですが、大学生の本分って何か体系だった知識を頭に突っ込む、自分の頭でその分野についてうんうん頭を悩ますことじゃないかとこの頃考えるようになってきてるんです。

で、そう考えたときに記憶の外部メモリ化(evernoteGTDとか)のような頭で考える負担を減らそうというのは、実は「社会人の思考法を実践してストレスフリーに近づいてる、俺、cool!」という思い込みだけで終わって、大学生(という時間がある立場)だからこそできる「1つのことに関して真剣にうんうん悩む」ということが疎かになってしまっているんじゃないかなーと自分で自分自身を危惧してます。

こう考え始めたのは理由があって、友人(その人は勉強したいって大学に来ている人で、個人的にも凄いなぁと感じることが多い)が、

「パワーポイントを使ってスライドで何枚も説明する講義は嫌だ、(情報量だけ多い)パワーポイントをただ写すだけの作業ゲーになってしまって講師の言っていることに集中できない。自分の中で咀嚼をする時間が授業中にない」

って言ってたんですね。

僕はこの視点が凄い新鮮で驚いた記憶があります。

というのも、自分はpomeraを使って授業で学んだことは自分の頭ではなく外部メモリに保存して、必要になったときにでも参照しようという態度になっていたんです。いかに授業は作業ゲーに落とし込んでしまうかという、言ってしまえば効率重視な考え方ですね。で、効率化が高まればわーいと喜んでいたという形です。

でも、これって本当に自分の頭のトレーニングになっているのか?と、先述した友人の言葉から考え始めたわけです。記憶の外部メモリ化を行うことによって、たしかに僕の成績は向上したし、時間創出にはつながったかもしれない。でも、もしかしたら大学で一番得るべきものの1つであるはずの「考える力」が疎かになっているのかもしれない。そういった気づきがあったとかそういう話です。

まぁ、昔から「苦労は買ってでもすれ」って言いますしね。もう少し、苦労したいと思います。


蛇足
ただ、上記は大学を学びの場として捉えているという前提があるので、この頃の風潮である「大学は大卒という資格を手に入れるための場にすぎなくて、そのために卒業までに、いかに楽をするかを考える」(from 東大の友達)という思考とはあんまり合わないとは思います。むしろそういう学生には記憶の外部化の活用というスタンスは正しい選択だとは思います。

就活から学んだ議論を円滑に進めるための5つの態度

意見の評価はパーソナリティに依存する

ディスカッションの究極の目的とは問題解決のアイディアを出すことですよね。そのために本来的には解決方法の内容がもっとも重要であるはずです。ただ、人間、なかなか解決方法の中身だけで判断するのは難しかったりするのではないでしょうか?

要するに、同じ意見を言っていたとしても、その意見を言っている人自体への評価によって、意見への評価も変わってしまうことがあり得ると思うのです。

ただ、もちろん、こういう事が起きるとあまりディスカッションとして有益なことはありません。よい意見だったとしても人物評価のせいで日の目を見ないことになってしまうのですから。

こんな状況にならないためにも私は、中身の議論とはまた別に、ディスカッションを円滑にするための態度は適切な議論を進めるうえでとても重要な要素だと考えます。

僕はこの夏休みに就職活動というものを開始し、幸いなことに多くの貴重な体験をさせてもらいました。その中で上記の点の必要性を強く感じたのがグループディスカッションです。そこでは、ほぼ初対面の人と共同作業を行い、一つの結論を出すことを要求されます。

このような場で、どのような振舞い方が良い議論を生み出すのか、自分なりに思ったところがあったので書き残したいと思います。

1、自分の表情に気を使う

相手の話を聞くときに顔は想像以上に自分がどう思っているかを表しています。ずっと笑顔でいるべきとは思いませんが(グループが悩んでるときに一人笑顔だと若干ずれているように思われます)、不機嫌な顔をして良いことは一つもないでしょう。たとえ、相手の意見に否だと思ったとしてもその考えを顔に出した瞬間、その後のコミュニケーションは潤滑には進みません。

少し想像してみてください。自分なりの考えを必死に話しているとき、相手が明らかに嫌そうな顔をしていたら、次のテーマの時にその人に話しかけたりしようとは思えなくなりませんか?

相手の目をみて「私は真面目に話を聞いているよ」というアピールを相手にしてあげてください。この態度が議論における相互信頼の始まりとなります。

2、結論がでたことは引きずらない

上記の事と関連しますが、自分の意見がグループの結論として受け入れられなかったときに残念と思うその気持ちをそれ以降に引きずってはいけません。そして顔に出してももちろんいけません。(残念と思うこと自体は仕方がないとは思いますが・・・。)

僕が体験したGD(グループディスカッション)で最も困ったものは、「拗ねる」「ふてくされる」という行為に走る人です。

僕はもう知らない、とか、このグループは自分には合わないからいいや、と言った思考はグループのメンバーが1人いなくなる状態を作るだけでなく、空気を重くする人が増えるというマイナスの存在になってしまいます。GDは共同作業です。たとえ自分が力になれないと感じたり、疎外感を感じたりしたとしても、周りに迷惑をかけないように努めるのが最低限の大人の行動ではないでしょうか。

3、相手の話をさえぎらない&結論づけない

相手の話を最後まで聞くことは議論、というよりも円滑なコミュニケーションをとる上で最低限必要なことです。ただ、この最低限のことができている人が(自分も含めて)意外にいません。そして、相手の話を遮るときの常套文句が「それは〜〜と言うことですね」という、相手の結論を奪う行為です。多くの場合、人は自分の話を勝手に要約されたとき、素直に受け取ることはできません。そのため、結論を奪ってしまうとよく

○について話そう

(○についての各々思う事を提案するフェイズに移行)

Mさんが○について話す

Lさんがそれを遮って結論づける

Mさんが「いや、そうではなくて」と補足等をしようとする。

それに対して別の人が「こういう事ですか?」等と話に入ってくる

(Mさんの○についての話がどういうものか、というフェイズに気づくと突入している)

という、本来の大筋とはずれた議論の流れになってしまいがちです。そうすると、全体からみると結論に向けて大変な大回りをしているという事になってしまいます。このように、話を最後まできかないという行為は、グループで行動する上で大切な意志共有というものを阻害し、結果としてあまり良い結果にならないことが多いと感じました。

*1

4、自分の能力アピールは全く必要ない

ディスカッションで最もいらないものの一つに自分の能力アピールがあります。具体的には、「それ、僕も今考えてた」「昔、それは考えたことあるけれど」「あ、知ってる」「経験上、きついでしょ」といった言葉たちです。これらの言葉のほとんどは意見ではなく、「感想」です。その人が昔考えたことがあるかどうかは事実か分かりませんし、あまり興味もありません。実際にディスカッションで役立つのは根拠がある建設的な「意見」です。上記のような感想でしかない、自分アピールの言葉ではメンバーの志気を下げることはあっても、その人の評価の向上につながることはまずありません。ましてや、そのような感想からディスカッションの成功に繋がることはないでしょう。

5、メンバー全体の利益を考える

上記のすべての前提になることだと思うのですが、個人の利益よりも、そのグループ全体の利益を考えることを優先しましょう。それが結果として円滑な意志共有と、活発な意見交換がなされる土壌の形成に繋がりなます。

少し就活の話になりますが、GDはグループの中での能力を見るために行われていますよね。グループの中での能力とは何でしょうか?きっとそれは組織で結果を出すという事につきると思います。しかし、実際にGWを体験したりしてみると、個人でどう考えるかというのを重要視しすぎている人が多いイメージでした。周りのメンバーと一緒に作り上げたのはこのようなことです。と自信をもって言えるかどうか、結果を出すために必要な視点は実はこういう事なのではないでしょうか。

番外編

(こっからは就活生として意識しといた方が良いなぁと感じたことをメモっておきます。)

  • 議論の過程を無視しない

就活のGDには必ず時間が限られていますよね。その時間内にある程度まとまった結論が必要になるという事ですが、議論が終盤にさしかかったときに、これまでの前提を疑ったりする意見がでてくることがあります。たとえば、「そもそも(←議論終盤では危険ワードです)、このターゲティングが間違っているんじゃないのかな」等と言ったことです。言ってる内容がたとえ正しくても、これはやめておいた方が良いかなぁと私は考えています。理由は簡単で、メンバー全体が混乱状態に陥り、まとまった結果を出すという最低限な基準すら満たさないことになってしまう恐れがあるからです。

  • 周りはライバルではなく、面接官だと考える

今までの内容を読んでくださった方には、そうは言っても周りと比べてアピールしないと就活は通らないんだろ!と感じる方もいると思います。ただ、もう一度考え直してみてください。その採用はおそらく一人だけを採る採用ではないですよね?企業に入ると言うことは組織で働くということです。そんな現実の中で、今横にいる人と円滑なコミュニケーションをとって結果を出すと言うことをできないで、会社の中に入って周りと結果を出すという仕事をやっていけると僕は思いません。
 僕自信はこの夏休みに学ばせてもらったのは、周りは自分と競っているライバルであるという考えるのではなく、周りこそが自分を審査している面接官だと考えるという方法です。
 面接官への接し方は、自然と仕事に就いたときのクライアントへの対応の仕方に繋がっていくのではないでしょうか。そういった意味でも、周りは同じ学生だという思考ではなく、社会人としての接し方の練習の機会が1つ増えると考えて、逆に周りの就活生に私がチェックされていると考えてみてはいかがでしょうか。

*1:ただし、あまりにも一人でぐだぐだと時間を使っている場合は例外ではあります。ただ、それも結論は奪わないで上げてください。反論から、また本筋とはずれた話が続いてしまいます。こういう時は結論を相手の口から言わせるようにすると効果的でした。具体的に言うと「あまり時間がないので、結論としてはどういう事ですか?」と聞く等です。

「ドグラ・マグラ」についてのまとめのまとめ

ドグラ・マグラ」を読み終わった!

夢野久作の代表作である「ドグラ・マグラ」を読み終わりました。
まず、最初に宣言させて欲しいのは、確かに言うまでもなくこの本は傑作だということです。

日本探偵三大奇書と呼ばれるのは読み終えてしまえ当然のことに感じます。この奇天烈かつ幻想耽美さが半世紀以上前の作品と思えばなおさらですね。この作品がすばらしいと思うのは、「ドグラ・マグラ」を読んだ後に、誰かと「ドグラ・マグラ」について語りあいたくなるところじゃないでしょうか。そういった意味で、比べるのは甚だ不誠実なのは覚悟だけども「ひぐらし」や「テレビ版エヴァ」と言った作品に読後感が似ている気がしました。

まぁ、ただ残念かつ、当たり前のことに、「ドグラ・マグラ」を同時期に読み終わった人なんてほとんどいないんですよね。ただでさえ、昔の本だし、ただでさえこんな表紙しているし、
LINK
ただでさえ、「本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来たす」なんて言われてますし。

というわけで、僕は読み終わった後にネットで「ドグラ・マグラ」についての書評とか読み漁った口なので、これから読み終わった人のためにも、面白かった*1サイトとかまとめておきます!というのがこの記事の趣旨です。ただ、一応ネタばれは全力で避けてます。

では以下どうぞ

ドグラ・マグラについて扱っているお勧めサイト一覧

wikipedia
最初に言っておきます、ここを読んだら駄目!絶対!
面白くもないくせに、大した満足感も得られません。
wikipediaを見るくらいなら下で紹介しているアンサイクロペディアの方が100倍マシです。

アンサイクロペディア
一応、説明しておきますがアンサイクロペディアとはwikipediaのパロディであり、書いてあることはほとんどが嘘のネタサイトです。
が、どうした?ってぐらい「ドグラ・マグラ」に関しては記事が秀逸です。「ドグラ・マグラ」の雰囲気を伝えることに成功しているばかりか、アンサイクロペディアの癖に本当のことを堂々と書いてます。

松岡正剛の千夜千冊『ドグラ・マグラ』夢野久作
よく書評に書かれがちな簡単なあらすじというものをお探しならこちらの書評をお勧めします。さすが千夜千冊の松岡氏、ドグラ・マグラなる奇書もしごくあっさりまとめているのは感服します。ただ、あんまり読み終わった後に読んでも得られるものは少ない気がするのは気のせいかな。

とある元映写技師の日常 「ドグラ・マグラ私的覚書」
今回、強くお勧めしたいサイトです。ドグラ・マグラの最大の特徴である複雑な構造をもう一度頭で整理するためには最適かと思います。作中作の題名ごとに何が書いてあったのか、また現実上ではなにがおきていたのかを、必要不可欠な情報量でまとめてあります。この手腕には感服します。このサイトを「ドグラ・マグラ」読了後に読むだけで大分理解の深さは変わってくると思います。ただ、最後の最後まで書かれていないのがたった一つであり致命的な欠点であったりします。

ドグラマグラによっていかんね!
ここは上記の私的覚書を読まれたあとに、訪れると良いと思います。「ドグラ・マグラ」の様々な内容に一つ一つ鋭い考察を行われています。「ドグラ・マグラ」に関してのポータルサイト的な役割も果たしていそうです。ただし、「ドグラ・マグラ」の内容を深く理解していなければ、この素晴らしい考察群の楽しみも減るだろうな、という事であえて一番最後に紹介させてもらいました。

あと、ネタとして

圧縮ドグラマグラ

夢野久作ドグラ・マグラ』を形態素解析マルコフ連鎖で圧縮してみました。

との事ですが、内容は伴ってないくせに確かにドグラ・マグラらしさは現れているとは思います(笑)

次に読むのにお勧めするなら

同じ雰囲気を味わいたければ夢野久作の代表作を順に読んでいくのがおすすめですね。代表作で攻めるなら『瓶詰地獄』、『少女地獄』あたりのチョイスが良いかと。


※少女地獄は漫画版もあるので、とっつきやすいです。


※個人的には『日本探偵小説全集〈4〉夢野久作集 (創元推理文庫)』がコスパが良くて気に入ってます。

変わり種系だと刀剣好きな審神者の皆様には耽美系としてがあったり

全集(私は流石に買えてないけど…)定本 夢野久作全集 (第5巻)もあります。

最後に

最後に個人的にこれからドグラマグラを読もうとしている方に一言
読んでいて前半部のつらさは尋常じゃないですが、後半になれば一気に頁が進みます。なので、それまでは(もし読み続けるのがつらいと感じたのなら)じっくりとではなく、あっさりとした読みで構わないと思います。是非、「ドグラ・マグラ」を通しで読むという貴重な体験を味わってください!

*1:コメントでご指摘あったので補足します。この場合の面白いの定義は、一度読み終わった上での再解釈を助ける、またはドグラ・マグラ特有の空気感を引き続いて感じることのできる事を意味しています。

女性に友達以上恋人未満は存在しないらしい

ふと、昔の大学でのクラスの飲み会で話題に上がった事を思い出したので書き残しておきます。

うちの大学はもともと大学自体の男女の構成比率が男:女=3:7くらいなので、飲み会もどちらかというとぐーたんぬーぼーみたいな会話で盛り上がります。最初は誰々がつき合ってるとか、今までの経験談とか、高校生みたいな話題で騒いでたのですが、後半になるに連れその人の恋愛についての価値観トークにシフトしていきました。個人的にはやっぱりそういう価値観トークが面白いので、うんうんと話を聞いていたり、酒の力を借りて自論を展開したり、そんな風に盛り上がってました。

そんな中、ある女子からのぽつりと呟いた一言が宴会の席の話題を総取りしました。

「友だちから恋人になるってパターンは無いよねー」

一瞬、何を言っているんだ状態になったになったのですが、詳しく話を聞いてみるとこういう事らしいです。

  • 女性は最初に男性と出会った瞬間に「友だちカテゴリー」と「彼氏候補カテゴリー」に分けられる。
  • だから「友だちカテゴリー」から彼氏になる事はほとんど無い
  • 「彼氏候補カテゴリー」は友だちという感覚ではない。
  • 友だちは一緒にいて楽しかったりする人だから「彼氏にする事に挑戦して今の関係が壊れる」というリスクを負いたくない。

もちろん、この意見に反対した女性も多かったのですが、意外にも半分程度はこの意見に賛成を表明、飲み会の場は一時、答えのでない「だって〜〜じゃん」トークに支配されました(笑)

この時、男子側でこの意見に真っ先に、そして真っ向から異議を唱えたA君がいました。
彼曰く「いや、だって友だちってプロセスを経ないと彼氏とか無理じゃないの?そもそも、それなら最初にダメだって判断されたら彼氏になれないって事だよね?」とのこと。僕自身もそうだ!そうだ!と(頭の中で)同意してました。そして今でもそうだと信じているんですが、この意見って男性側の意見を端的に表してますよね。男性からすると「知り合い→友人→彼女」というプロセスが最も一般的な事だと思うし、そうじゃないと、第一印象でイケメンと判断されないと終わるという現実に耐えられないじゃないですか!(ちなみにA君の質問はあっさりと「そうだよ」という答えによって打ちのめされていました)

ただ女性側からするとその考え方は選択肢の1つでしかないようです。
つまり、知り合ってすぐに彼氏になると言う「知り合い→彼氏」も人によっては全然okだとの事でした。
それどころか、「知り合い→彼氏」以外は受け付けないという人も結構いるようです。
だからこそ、「あんなに仲が良いと思っていたのに、アプローチをかけたら撃沈した」というありがちな男性の経験談が出てくるのかも知れません。考えてみれば、確かにこのパターンを女性から聞くことは少ないような・・・。

このギャップは非常に面白いですよね、個人的には少年漫画と少女漫画の違いを端的に表しているような気がしました。少年漫画はどちらかというと、ヒロインと公式につき合うという設定は少ない、だけれども一緒に旅をするメンバーの一人だったりして、「ヒロインは彼女じゃない=友達以上恋人未満」が物語の前提に組み込まれている気がします。一方で、少女漫画は、そういう設定もあるにはありますが、恋愛自体が中心となることが多いので「恋人の状態」が描かれている事が少年漫画と比べ多い印象を受けます。ここが男性側と女性側の心理の違いを生み出しているのかなぁなんて仮説を今更考えたりしています。

なんだが、まとまりのない文章になってしまいましたが、彼女を新しく作りたいのであれば

  • 狙っている女性から友達カテゴリーに入れられていないかチェックする事
  • 新しい出会いのために第1印象の向上に全力を尽くす事

をする必要があるかもしれないとかそんな話でした。