文字の洪水に溺れながら

人生初心者、でも人生のハードモードぐらいを生き抜きたい人間。

macでJava7をダウングレードする

GoogleAppEngineを試そうとしたら、
Java7だと対応していないとの旨を見つけてしまった。
既に入れてしまっていたよ・・・。
しかもmacだからあんまり情報上がってないだろうし・・・。

ということでダウングレード方法を探してみたらOracleの公式に有りました。
http://www.java.com/ja/download/help/mac_uninstall_java.xml

Java:排他制御がかからないと失敗するサンプルコード

必要にかられてせっせこjavaを勉強しています。

最近はマルチスレッドの学習を進めているのですが、
理解がイマイチなので今まで理解したところをメモ。
テキストは独習JAVA 9-3

テキストにはサンプルコードとして正しいものしか
書かれていないので理解に苦しみました。
なので駄目な方も書いてみたらだいぶ理解が進みました。
やはり詰まったら何事も手を動かすことは重要だね。

以下のコードでSynchronizedをつけたコメントアウトしてる方のコードは問題なく値は定まるが、つけていないほうで実行すると値は定まらない。

何故ならばdepositメソッドがロックが掛かっていないと、並列処理中に2回やったはずなのに1回分がなかったことにされる事が発生してしまうから。
詳細はパーフェクトJavaの図16.3で書かれている。

package main;


public class Account {
	private int balance = 0;

	void deposit(int amount){
		//	synchronized void deposit(int amount){

		balance += amount;
	}

	int getBalance(){
		return balance;
	}
}


class Customer extends Thread {
	Account account;

	Customer(Account account){
		this.account = account;
	}

	public void run() {
		try {
			for (int i = 0; i < 10000; i++) {
				account.deposit(10);
			}
		} catch (Exception e) {
			e.printStackTrace();
		}
	}
}

class BankDemo{
	private final static int NUMCUSTOMERS = 10;	
	public static void main(String args[]){

		//口座の作成
		Account account = new Account();

		//スレッドの作成と起動
		Customer customers[] = new Customer[NUMCUSTOMERS];
		for (int i = 0; i < NUMCUSTOMERS; i++) {
			customers[i] = new Customer(account);
			customers[i].start();
		}

		//スレッドの完了を待機する
		for (int i = 0; i < NUMCUSTOMERS; i++) {
			try {
				customers[i].join();
			} catch (Exception e) {
				e.printStackTrace();
			}
		}

		//口座の残高を表示する
		System.out.println(account.getBalance());
	}
}

いまいちまだわかっていないのはSynchronizedブロックを利用する際にどこのスコープでブロック指定を行えばいいのかという点。
たとえば、上記のコード内のmain関数を

	public static void main(String args[]){

		//口座の作成
		Account account = new Account();

		synchronized(account){
			//スレッドの作成と起動
			Customer customers[] = new Customer[NUMCUSTOMERS];
			for (int i = 0; i < NUMCUSTOMERS; i++) {
				customers[i] = new Customer(account);
				customers[i].start();				
			}

			//スレッドの完了を待機する
			for (int i = 0; i < NUMCUSTOMERS; i++) {
				try {
					customers[i].join();
				} catch (Exception e) {
					e.printStackTrace();
				}
			}
		}

		//口座の残高を表示する
		System.out.println(account.getBalance());
	}

とaccountをロックしていても値は定まらない。
だけどrun()の方を以下のようにSynchronizedブロックを行うと値が定まる。

class Customer extends Thread {
	Account account;

	Customer(Account account){
		this.account = account;
	}

	public void run() {
		try {
			for (int i = 0; i < 10000; i++) {
				synchronized(account){
					account.deposit(10);
				}
			}
		} catch (Exception e) {
			e.printStackTrace();
		}
	}
}

ここら辺を説明できるようにしておくこと

燃えよ剣(上)の読書感想 アンチ土方の立場から

燃えよ剣(上)

燃えよ剣〈上〉 (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社
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正直な話をして、私は土方を好きになれない。
上巻のみを読んだ感想は素直にこのようなものだ。

この本を読まずして漢を語るのははばかられる。
そう思って齢24になって読んでみたが、
少々読むのが遅すぎたのかもしれない。

ファンの方には「この腑抜けもの!」
と馬鹿にされるのかもしれないが、
土方の暴力的で自分勝手、
自己のあり方に自信を持ち、
それが守られなければ殺人までもを
犯していく彼の心は理解しがたかった。
いや、正確に言えば理解は出来るが、
理解したくなかったというのが本音のところだ。

おそらくこのような感情を持ってしまうのは、
死というものをフィクションの中でしか感じられない
平和な日本で育ってきたからだろう。
短絡的(と私は感じてしまう)に、
国学者を胡散臭い人間として死の懲罰を与えていく
彼の姿は、不快感すら感じてしまった。

また個人的には土方には思想というものを
軽視していたことに憤りを感じたのだとも思う。

私は行動によってのみ生きていく生き方が苦手だ。
何事も先に理と利を考えてからしか行動できない。
そんな生き方を少なくとも四半世紀続けてきた自分には、
信念を持って人生を道具として生きていく彼の姿には
理解不能の恐ろしさしか抱けなかったのだ。

上巻までは土方無双だったのも気に入らない点だったのかもしれない。
どうしても私は夢想している人物にその理由を求めすぎる癖がある。
上巻まででの土方の描写では私の中では、
その強さの理屈が説明されているにいたらなかったと感じてしまった。
もっともこれもまた、単なる理屈の話でしかない。

下巻に入り彼の人間的魅力を再発見できるかどうかが、
この本を感情的に好きか嫌いかを分けるだろう。

彼の常軌を逸した自己の信念の強さの信奉といった
おそらく評価すべき点を全て無視した感情論を書いてしまった。
改めてファンの方には謝罪をしておく。

話は飛ぶ。

ここまで書いてきて、
なぜ、土方をここまで毛嫌いしながらも、
今までに読んできた似たような行為の人物は
私は肯定できていたのだろうか?

例えば桶狭間戦記で松平広忠を見殺しにした今川義元
例えば北方三国志曹操やFateZeroの切嗣
そんな彼らは自己の信じる信念のもとに、
数々の障害者を断罪し、殺害してきた。

いったい土方に感じているこの不快感とは何がちがうのだろう?

この部分は改めて自分の中で考えておくべきだとは思う。

今の私の落とし所は
・主体者がその行為は残虐なものだという自覚があるか
・主体者がその行為に自信を持ってしまっているか
の2点において違いがあるという思っている。

私が今まで、そのような信念ゆえに多くの悪を為した場合、
感情的な自己への嫌悪感を持ちながらも
信念のために否応なく実行せざるを得ないがために行なっているか
という点が胸を打つ大きな原因であった

平たく言えば悩んでいるのである。

しかし、(あくまでも上巻での)土方は全く悩まずに、
自分の信念のもとに邪魔なものを排除している。
ここが私の中の不快感につながっているように感じている。

この点はもう少し考えてみるべき題材だとは思うが今日はこのへんにしておいて、
明日からの下巻の内容に心を踊らせながら眠るとする。

twitterの扱いについて

リアル友人に何人かに聞かれたので、ここに書いておきます。
現在twitterは半年近く更新していませんし、閲覧もしていません。
理由としては単純です。

時間泥棒だからです。

残念ながら僕には自己コントロールの意思が弱く、
twitterを一度開くと1時間単位で時間がなくなっていくのです。

これは「情報収集=娯楽」&「フォローしている人が結構いる」
の人しかわからない感覚かもしれませんが、
何度更新しても新しいつぶやきが表示され、
どこまで行っても終わりが無い様は結構洒落にならない無限地獄です。
好きな事のはずなのに、嫌になりながら見続けてる時もありました。
半ば意地になって閲覧を続けている状態です。
今思えばかなり異常な状態でした。

なので、すっぱり更新を辞める事にしました。
今はブログの更新時だけ連携でつぶやくようになっています。

今後の使い方としては、今のように投稿だけして閲覧はしないと思います。
あ、ただリプライなどは通知がくるようにしているので反応はする予定です。

やめた時は時代と逆行していたので不安になりましたが、
今になっては辞めてよかったと思えるサービスの一つです。

やめる力
やめる力
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読書録「理解とは何か」

目次

プロローグ(佐伯 胖)
1 理解の文脈依存性(村上陽一郎
2 算数・数学における理解(銀林 浩)
3 理解におけるインターラクションとは何か(三宅なほみ)
4 リテラシーの文化的起源(M・コール)
5 「理解」はどう研究されてきたか(佐伯 胖)
解題 人はどのようにして「他人の心」を理解するの(佐伯 胖)

読書感想

専門的で難しい本であった。
原因は専門用語によるものが大きい。
認知心理学の分野では一般的な用語でも、
門外男の自分にとっては意味がわからない用語の理解に苦しんだ。


たとえば「スキーム」などが専門用語の例としてあげられる。
スキームとは「単語群の意味のあるまとまり」を差し示しているようだが、
私はこの説明以上に本質的な理解ができている気がしない。
こういった言葉が出てくるたびに、いちいち引っかかりを感じてしまった。


字面的理解しかできていないのが原因だろう。
つまり、その専門用語が出てくるまでに、どのような理論が展開されてきたのか、
その言葉自体にどんな必要性があるのか、それがわかっていないのである。


ピアジェの発達心理学、チョムスキー理論、行動主義なども
同様の理由から、意味をわからないまま読み進めなければならなかった。



では、この本は読む価値がなかったのだろうか?



否、そうではない。
この本を読むことによって得た知識は確実に存在している。


「物の考え方」を考えているシステム
「物の考え方」を考えるためには外すことのできない要素

というこ2つの情報をこの本は与えてくれた。
そして、それは私が今まで全く咀嚼することのできないものであった。
全くわからない分野の話のとっかかりを私に与えてくれたのである。


たとえば、1章の「理解の文脈依存性」はわかるという瞬間を考察している。
本能的に「あ、わかったぞ!」と感じるあの瞬間である。
今までの自分であれば、それを科学的に説明することは不可能であった。


しかしながら、この本はそれを心理学的に以下のように説明する。


自らの体系化された知識という一種のパラダイムが人間の内側には存在している。
そして、そのパラダイムが外からの情報によって大きく変わることがある。
大きく変わること、とはその人の内側にあった既存の知識の体系を1から作り直すことである。
この知識の体系化の更新をパラダイムチェンジと呼び、
これが完了したことがあの「わかった!」という感覚をもたらすことである。


私の中では、この論の正統性が重要なのではない。
この論のように、一種考えることができないと思っていた
「考えること」をシステムとして考えることができていることが重要なのだ。


ということで、この本が冒頭で難しい本だと宣言したのは、
難しく読み応えがあるがゆえに、自らの栄養になる本であった、
という意味で捉えてもらえれば幸いである。



============
以下、気に入(な)った部分の読書メモ


1 理解の文脈依存性(村上陽一郎
 上にて書いた。



2 算数・数学における理解(銀林 浩)


 A やり方がわかる
 B わけがわかる
 は小さい時は前者の欲求が満たされれば満足し、
 年を取るにつれて後者の欲求が上がっていく


 表面的理解か本質的理解かの違いは人に教えればすぐにわかる。



3 理解におけるインターラクションとは何か(三宅なほみ)
 2人で同じ問題を出されても、(ミシンの仕組みをわかること)
 「私が少し自分の考えを出す、あなたの考えもすこしもらう、
  そうやって二人でひとつの共通理解を作り上げる」
 ということにはなっていない。
 一緒に話をしているけれども、やっていることはまったく独立である。
 お互いに自分の問題を設定して、自分で問題を解いている。
 何かが出てきたときにだけ、相手(がいるから)に「こうなんじゃないか」と伝える。
 最終的なわかりかたは全く別になる、ただどちらもあっている


 2人で全く同じ仕事を均等に分配することがアウトプットの向上にはつながらない
 片方が作業を行い、片方がモニター(気づきを適切にFBする)役割のほうが向上する。



5 「理解」はどう研究されてきたか(佐伯 胖)
 理解の研究の主論
 情報処理レベル→深さ、浅さ 言葉という符号とどれだけ連想やイメージ必然性が結びついているか
 メタ認知→今、自分が理解度がどれくらいか、自分の置かれた立場(役割、責任)がわかっているのかが理解に繋がっている
 思考の文脈依存性→与えられた問題の文脈、何が問題なのか、なぜそれが問題なのかがわかっているか


 実験室と日常の理解の差 

リーダーシップを妄信しすぎる日本国民

タイトルは半分ネタで、半分マジです。


先日、バイオの買物.comにて加々美直史さんが書かれていた
なぜ日本にリーダーがいないと言われるのか、ちゃんと論理的に議論しようよ
に触発され、一応経営学部生であることを忘れないため、
また個人的にリーダーシップ論には思い入れがあるので、
先人の知識を引用しつつ、自分の意見を書き記してみました。

結構長くなったので飛ばし読みたい人は「まとめ」だけどうぞ

コンテンツ

  • 触発された記事の検討
  • 目的の明確化
  • リーダーシップの定義
  • 今、日本に足りない要素は何か
  • まとめ

触発された記事の検討

加々美さんの
なぜ日本にリーダーがいないと言われるのか、ちゃんと論理的に議論しようよ
に書かれているポイントは以下の2点に集約されるかと思います。

  • 日本にはフォロワーシップの議論が欠如している
  • 日本のリーダーシップの欠如の原因を「和を重んじる風習」に求めるのは愚かなことだ


以上の2点は的確な指摘だと思います。*1

特に後者の部分はその通りで、世間では思いこみが激しい人たちが
「日本では周りを気にする人が多いからリーダーは出てこないんだ!」
という極論を声高々に叫ぶために、
なぜか一般論としてまかり通っちゃったりしているので、
このようにロジカルな反論は非常に重要です。

この風潮は危機感を持って対処すべきことだと思います。
このままだと、はてブコメントの方でGl17さんが

こんな有様だからリーダーシップ論が強権待望(まるで別物)に摩り替わっちまうんだよな。

と指摘しているように下手をすれば
ヒトラーも真っ青な全体主義マンセーが復活しちゃいますよ。

日本国民の皆さん、ぜひ適切な判断能力を磨いてください。*2


ただし、加々美さんの内容だけだと、
日本がリーダーシップを発揮するための具体的な方法は
フォロワーシップに関して議論することだけしか言及されていないこと、
そして「日本でリーダーが育つこと」と
「日本全体がリーダーシップを発揮すること(=日本の衰退を防ぐこと)」
の関係性がごちゃごちゃになったままで話が進んでいるので、
その部分を明確にするつもりで自分なりに意見をまとめてみました。

目的の明確化


そもそも経営学的にリーダーシップを考えるのであれば、一番議論が必要なのは、
「リーダーシップで何を達成したいのかを決めること」だと思われます。
勘違いしがちですがリーダーシップとは目的ではなく手段です。
そのため目的によって、求めるリーダー像はいくらでも変わります。


だから、


「どうやってリーダーを出るようになるか」
じゃなくて
「どうしてリーダーが必要なのか」
「リーダーにどこまで、何を求めるのか」

を決めることが真っ先に必要になります。


今の日本人って安易に、
「リーダーシップがある人が出てくれば事態が好転する」
みたいにリーダーシップを何か万能薬と勘違いしてる気がするんですよね。
皆さん、「リーダーシップ所持者がやる事=正義」だと思ってないですか?
それはリーダーシップを妄信しすぎですよ!


先も書きましたがリーダーシップは目的達成のためのツールに過ぎません。
そのため目的を明確化せず、そこにコンセンサスも取れていないと
「こんなハズじゃなかった」が往々に起こりますよ。
だからリーダーが現れる環境を考える前に、目的を設定することは凄く大事なんです。*3


さて、では解決したいのは今の日本の各種問題点だとしましょう。
そしてそこを出発点として以下のような論理が進みます。


経済的に他国に劣っているとか、自国の立場を通せないとか
そういった各種日本の問題群を解決するための方法が必要だ。

リーダーシップにそれを求めよう。

リーダーシップを持っている人材を増えれば、
日本全体の問題もリーダーシップで解決できるはずだ

だから、日本に政治的にも経済的にも倫理的にも、
っていうかまずは学校のクラスレベルでもフィールドは問わずに、
とにかくリーダーシップを発揮する人材が出てくることが必要だ。

じゃあどうすればいいだろう。



こういった議論しようというのであれば、*4
次に「リーダーシップ」の定義、リーダーシップの構成要素などの分析が必要になります。


まさかリーダーシップも定義しないで
リーダーについて話せるとか思っている人はいないですよね



リーダーシップの定義

ここで個人的にリーダーシップの定義として使いたいのは、
波頭氏の「リーダーシップ構造論」です。


今のところリーダーシップ論を話すのであれば、
これが一番使える書籍だと考えています。


この書籍を挙げた理由は明解で、
孫子が挙げた智・信・仁・勇・厳のような
感覚的には分かるけど、実際行動としてはどうすればいいの?
といったいわゆる感覚・感性論ではないからです。


論理性が高く、具体的行動に落とせる程度に詳しく、網羅性も高い良書です。
僕が胸を張ってオススメできる数少ない本です。
ていうか、買って読んでみて下さい。
そうすれば言いたいことが分かります。

あと先に言っておきますけど、ステマではねぇぞ!!!(言いたいだけ)


さて、この本を記事を書き進めるためにも、
すごーく簡単にまとめさせてもらいます。


まず、波頭氏は以下をリーダーシップと定義しています。

人の心に働きかけて、啓発と動機付けによって
人を動かすことを通して組織集団を動かす方法。


そして、リーダーシップが発揮されるためには
属人的資質と組織環境条件の2つが必要であると主張しています。
詳細要素も以下に記します。ただ、読んだ方が正しい理解ができるとおもいます。*5



属人的資質(リーダーシップコア)
 ・能力(意志決定力、実行力、コミュニケーション力)
 ・人間性(愛情、倫理)
 ・一貫性(時間的一貫性、関係的一貫性、状況的一貫性)


組織環境条件(これは加々美氏が指摘したフォロワーシップを指します)
 ・チームケミストリー
 ・ジョブデザイン
 ・組織特製


波頭氏はこれらの要素を鍛えることによって
リーダーシップを発揮できるようになると主張しています。
本エントリにて利用するリーダーシップについての定義は以上です。*6
本当はこの本だけでエントリを書くべきだとは思うんですけど・・・。


今、日本に足りない要素は何か

やっと核心部分に触れられます。


今までの前提を踏まえて、
私が日本でリーダーを育てるためには、
「一貫性」を重要視する必要があると考えます。


一貫性とは時間が経っても、相手が誰でも、
どのような環境下であっても常に同じような意志や態度、
パフォーマンスを維持することができるかという能力のことです。


加々美氏は日本ではフォロワーシップ
ついての議論が無いことに着目されていましたが、
私はどちらかというと、
現在の日本人に一貫性が無いことが、
リーダーが育たない原因だと考えています。


ここからは完全な個人の仮説です。


一昔前は世界的に変化に柔軟に対応するというコンセプトがもてはやされていました。
これは正しさ(需要)を外に求める事を意味しています。


日本は敗戦国から先進国に追いつくためにこのコンセプトを取り入れ、
環境の変化を捉え、いち早くそれに追いつくことによって、
Japan as No1と呼ばれるような成功を収めてきました。


ただ、時代が下るにつれて情報のやりとりが異常なまでに早くなりました。
いわゆる情報化社会の到来です。
情報化社会は正しさ(需要)の多様化を生み、
正しさの変化(トレンドの変化)の速度は大幅に上がりました。


これらのことから変化対応モデルは瓦解します
あまりのスピードに意見を吸い上げてそれに対応するのが物理的に不可能になるからです。*7


このような環境でリーダーシップを発揮するためには、
正しさを外ではなく内側、つまり自己に求めることが必要です。
つまり、自分で正しい事を決めてそれをやり通すことです。
この能力こそ一貫性に他なりません。


逆に言えば、現代の日本は従来のパラダイムを妄信することによって、
この一貫性を軽視されるような環境が作られてしまっています。
これこそが、私が考える日本でリーダーが育成されづらい原因です。*8


まとめ

最後にエッセンスだけ取り出してまとめます。



加々美さんのブログに触発されて日本のリーダーシップについて考えました。
まずリーダーシップで何をしたいのか、目的をハッキリさせてくれないと困ります。


でも話が進まないから、そこをクリアしたと仮定して、
リーダーを育成したいならどうすべきか考えるよ。


リーダーシップの定義は一番使えそうな波頭氏のを使うよ。


自分が考えるに一貫性が軽視されているのが問題だと思うよ。


今の時代は変化に対応して変わるよりも、
自分で正しさを定義してそれを貫き通す必要があるんだって。
それなのに今の日本は昔の変化対応モデルを
いつまでも妄信しやがって、ホント、だっせーな。


以上。

*1:ちなみに、多分、僕の頭の悪さのせいですが、
ジョブズの話が出てくる意味がわかりませんでした。

日本にジョブズが出てこないことを嘆くことのアホらしさを指摘する
という意味かと思うんですが掘り下げると

「日本にジョブズが出ても意味がないよ」
(だからジョブズが出てくる話は馬鹿馬鹿しい)

と主張したいのか

ジョブズが出てくるのはどこでも難しい」
(だからいきなり日本でジョブズが出てくるための議論をするのは馬鹿馬鹿しい)

と主張したいのか、どっちの意味なんですかね?

*2:もちろん自分含む

*3:これがリーダーの仕事だって考え方も理解できます。
ただ、それならリーダーが正しい目的を設定できるようになる仕組みとかを
議論しなくてはいけないはずなので、結局同じところに行き着く気がします。

*4:お気づきの通りこれは酷く稚拙な論理です。
だれかここら辺を補完してください。

*5:だからステマじゃないって!言いたいだけ

*6:言葉足らずの印象が受けるかも知れませんが、
これを前提としようと言っているだけなので、
ここは自分では突っ込みようがないんですよね。

*7:いや、まぁ、グリーやDNAみたいな、変化対応の極地で勝負するのも手ではあるかと思いますが・・・。

*8:一貫性をいかにして持つかはじっくり考えてまた別エントリで書きたいです。

四年前の自分に捧げるメッセージ ― 「楽しさ」について編 ―

四年間の大学生活がもうすぐ終わる

四年間の幸せと四年間の苦しみを経験した自分から、
四年前の自分に率直なメッセージとアドバイスを贈ろうと思う。


これから君は沢山の時間をかけて沢山の経験をする。
それは辛いことも多いし、楽しいことも多い。
すべての時間を思い出せるわけではないけれども、
人並みの学びを行い、人並みの感情を経験し、
今の僕は人並みの人になったと自負できる。


いや、君にとって残酷な言い方をするならば、
人並みの人にしかなれなかったと
表現したほうがいいかもしれないね。


君はこれを聞いて失望するだろうか。
それともやはりと納得するだろうか。
どちらになるかはわからないが、
この文章を読んで全く変わらない人生を送るほど
君は馬鹿ではないと信じてこのメッセージを書き残そう。

楽しさには二種類ある


まずは「楽しさ」について話そう。


これからの大学生活で君が感じることになる
楽しみには大きく2つに分けられる。


1つは享楽で、1つは獲得楽だ。

享楽について


享楽は思考停止に近く、
不思議に思うかもしれないが、
それは君を思った以上に幸福へと導く。
だから別にこれを嫌悪する必要はない。


もう知っているとは思うけれども、
君は根の部分では怠惰にできているから、
時と場合によってはこういう楽しみを享受する事は必要だ。
実際、この楽しみに救われたことは少なくはなかった。
ただ、それが刹那的な楽しみだと忘れてはいけない。
そして、それは外から与えられる楽しみだと忘れてはいけないよ。


享楽は往々にして消費という形を取ることが多かった。
この消費という言葉には、時間とかお金とかいう意味もあるけれど、
用意されたコンテンツを想定された範囲内で利用する
そんな表現の方が実感としては近い意味だろう。


享楽は享受する楽だから、だいたい作成者がいる。


作成者の想定した箱庭は、
自らの費やした時間にあった成果をくれるし、
与えた時間に対してそれなりの満足感を与えてくれる。
ただ、それは箱庭の中でしか使うことができない。
僕は現実に戻ってきたときにその事実に何度も直面した。
消費はとても楽しいけれど、とても虚しいものだ。


この四年間、僕は刹那的な喜びを得るために、
大量の時間を浪費してきたことを君に明かそう。
そしてそれを無くすことが恐らく不可能なことも予想しよう。


だからこそ、君には享楽との付き合い方を確立して欲しい。


享楽に使われるのではなく、
享楽を使えるような人間になってほしい。

獲得楽について


さて、次は獲得楽だ。


想像が付くと思うけれど、
これは人から与えられるのではない
自分から獲得することによって得られる楽しみだ。
言い換えると、自分を自分で認めることによって得られる楽しみだ。


ただ残念ながらこいつはすぐに得ることができない。
しかも、経験上、楽して得れることも少ない。
こいつは、なんかもうどうしようもない所から、
自分なりに必死になった先に得られることが多かった。
言ってしまえば努力の先のほんの小さなご褒美みたいなものだ。
享楽と比べれば笑ってしまえるぐらいコスパが悪い。


でも実はそうじゃない。
これは刹那的な楽しみではない。
この楽しみこそが自分の価値を形作るものなんだ。


一度、経験したこの楽しみは、結構長いこと自分に残る。
自分を支えてくれる自信とかそういうものを与えてくれる。
大学で専門技能を極めるつもりのない君にとっては、
この獲得楽をどれだけ体験できるかが四年間の至上命題になる。


アイデンティティーってやつもだいたいココから来る。
なぜなら自分が自分自身のためだけに与える獲得楽ってやつは、
享楽と違って誰にもコピーされない自分だけのオリジナルだから。


アイデンティティーついでに言うと、
こっ恥ずかしいけど興味のあるだろう自分探しの旅は、
自分がやった結果そのものが自分の獲得楽として自らの答えになる。
だから外から与えられるものに本当の自分なんかあると思っちゃいけないよ。
本当の自分は、自分で認めて自分で作るしかないのだから。


さて、その獲得楽を手に入れる方法だけど、
自分に恥じない生活をするしかない。
面倒くさいけど評価者は自分しかいないから。


で、自分に恥じない生活ってやつは、
自分の駄目さとか限界とかに向き合って、
それを少しでも克服するように生活することだ。
それはとても苦しくて、とても面倒くさい。

でもやるしかない。


なぜかって?


君はそれをやらないと後悔する人間だって
僕が一番知っているからだ。


これからの四年間が君にとって価値のある四年間であることを祈っているよ。