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文字の洪水に溺れながら

人生初心者、でも人生のハードモードぐらいを生き抜きたい人間。

本当のことを言う倫理

記者のつぶやき - 本当のことを言う:ITpro

今日は大学の授業の内容が(安っぽいと言われるのかもしれないけど)感動したことがあった。
そしてそのことがこの記事に深く関わっていたから、なんというシンクロニティー!とか思って思わず書き始めてしまった。

僕の大学には森本あんり教授という人がいて、まぁ、一言でいうと、おもしろい授業をする人だ。
この面白いって言う感覚は楽しいとか笑えるというわけではないんだけども、知的好奇心を煽るというか、interestingという言葉がぴったりな感じで、飽きが来ない。ついでに言うとあまり眠くならないから好きだ。(嘘です、寝たこともありました、ごめんなさい)

大学が大学でICU(International Christian University)というミッションまっしぐらの学校なので仕方ないんだけども、その森本先生が講義している授業にキリスト教概論という授業があって(ちなみに必修)、今日の話はその中で触れられていた事だ。

その内容の概略を以下に記す、結構めんどくさそうだけどがんばって記す。
まぁ、本当はもっと硬い感じだったけどブログまでそんな硬い感じにしたくないのでニュアンスだけ伝わるように書いてみる。

以下授業内容(翻訳度4割)

マックス ウエーバー「職業としての政治」を知っている?

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)

(ちなみにこの後、図書館で実物見たけど角川より岩波のほうがわかりやすい訳だった)


彼はこの中で倫理観を次の2つに分けた。

心情倫理って言うのは自分の良心から来る倫理のこと。
まぁ、純粋な動機を求めるって言う宗教のお手本みたいな道徳観のこと。
責任倫理って言うのは結果を重視する倫理のこと、動機は二の次でとにかく結果によって倫理を行うこと。

例) 心情倫理
あ! あのおばあちゃんが困っている、助けなくちゃ!

例) 責任倫理
あ! あのおばあちゃんが困っている、(遺産もらえるかもしれないから)助けなくちゃ!

で、ウエーバーは「どのような倫理であれ力がなければ意味がない」ってその本で言った。
簡単に言えば力がないんだったらどんな綺麗ごと言ってもはじまらねぇぜ!って感じ。もっと言えば国会の周り30人とかで集まってデモしたって何も変わりゃしないんだからそんな倫理観なんて持ってるだけ無駄だ、オバサンどもめ!!とかそんな感じ、見てのとおり責任倫理を優先したわけだ。上の例で言えば心情倫理でも良いかもしれないけど助けれたら責任倫理でも問題なし、むしろ心情倫理のほうは善意のみで成り立っている分、強制要素が少ないから責任倫理のほうが優れているとかそんな理由。

あの有名な台詞、目的は手段を正当化すると同じ考えだね。(ただ注意しないといけないのは「結果としてよい方向に導けば」が入ってないと駄目らしい)あとウエバーは政治家にとって決定的な要素は権力暴力であるとまで言っちゃってる。(日本の政治家がこれを言ったら・・・、それこそマスコミが黙っちゃいないんでしょう)

んで、ウエーバーを習うときはだいたいここまでは簡単に習うけども、もう少し深くまで知ってほしい。
彼は確かに心情倫理の十中八九はロマンシズムに違いないといっている、響きがいい、理想的だ、そんなことでしかないと述べている。だけどこの本の最後にはこうも書いている。

(中略)・・・心情倫理の背後にあるものの内容的な重みを問題にするね。そしてこれに対する私の印象はと言えば、まず相手の十中八九までは自分の負っている責任を本当に感ぜずロマンチックな感動に酔いしれたホラ吹きというところだ、と。人間的に見て、私はこんなもにはあまり興味がないし、またおよそ感動しない。これに反して、結果に対するこの責任を痛切に感じ責任倫理に従って行動する成熟した人間がある地点まで来て「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏みとどまる」というのなら計り知れない感動を受ける。

ちなみに「私として云々」のところはルターが破門状を突きつけられた国会で言ったらしい言葉
ミニ劇場風にするとこんな風になる

当時の国会「おい、ルター空気よめよ、1500年の歴史あるカトリックにケチつけてどうするんだ」

ルター「ふざけんな、俺はお前らより死ぬほど考えて、これが正しいって確信したんだ。自分の主張している正しさの責任は破門だろうと何だろうとどんな形でも果たしてやる、だが、この考えはこの責任を果たしている限り変えることはできない、そして正しいのだから変える必要もない」
(あぁ、なんという中二病、だけど俺はここでジーンと来てしまった)

この自分の信じている正義とそれに対しての責任を最後までしょってやるという覚悟があってはじめて政治家になれるとウエバーはこの本で言っている。(そういう意味では自殺された松岡農水大臣とか永田議員とかは政治家としての気質があったのかなぁとか思ってしまう、だけれども死んだら議員としての資質があるなんていうのはちょっと極論のような気もするけど、それよりも損得勘定やロマンシズム以外で動いている議員がどれだけいるのかは甚だ疑問なのが悲しいところですよね)

とまぁ、そんな授業でした。

本当のことを言う強さ

それで、やっと冒頭の「本当のことを言う」につながるんだけど、元記事のとおり本当のことを言うことっていうのは死ぬほど勇気がいることだと思うんだ。

上司が怖い,読者が怖い,スポンサーも怖い,さらには取材先も怖い。改めて考えてみると,こうした構造のなかで私たちは仕事をしているのである。そこに身を置きながらも「真実をありのまま舌鋒鋭く」表現するのは,それなりに勇気のいることである。


俺なんかバイト先の上司に間違っているなんて死んでもいえないし、よっぽど仲がよくないと友達にもきつい。そんなことを実際にできるのは本当に数が限られた人だけにしか感じられない。そんなことで意地を張ってなんのメリットがあるんだろうか?自分の意地を少し横においておくだけで、そのときを少し黙ってすごすだけで、その場は切り抜けられる。だっていうのに自分の正義を信じて本当のことを言うことに意味があるのか?それは単なる自分のわがままに過ぎないのではないのだろうか、という疑問をどうして退けなくてはいけないのか。本当にメタ的に自分を観てみるとそんな考えが浮かんできては消えていく。

だけれども、だけれども、ウエーバーが指摘した政治家としての真実を言う(=自分の良心に目指した行動とその責任を全て負いこんだ上でその意見を発表し変えない)という資質は現代では決して政治家だけに必要とされているんではないんだなぁと元記事を書いている記者とそしてそれをブクマという数で評価しているはてな村人のみんなに俺は感動したんです。

もちろん正しいっていう基準があいまいな物だなんていうことはわかっている。
(そこら辺はダークナイトの感想でちょっと書いた「ダークナイトを見て・・・、うん久々に戦慄を覚えた - 文字の洪水に溺れながら」)
だからといって空気に飲まれてまで自分の正義を捨てるのはやっぱり気持ち悪いものなんだと再認識できた。
これは純粋に感動できた、青臭いかもしれないけどジーンときた。

バラエティー仕掛けの報道番組ではないけれど,読者が読みたい「売れる商品」としての情報とは,メディアに長く身を置くものの経験からいえば,多くの場合「本当のこと」ではない,との指摘であろう。「売れる商品」とは読者が求めるもので,さらに言えばマスコミと呼ばれる営利組織が求めるものでもある。それに背を向けて,本当だけれども読者にも自分の会社にも求められないものを生み出すことは,表現することを生業とする者として相当に怖い。

というわけで元記事の記者みたいに自分が信じるその正義に身を任せて、上のような恐怖を克服して、そしてその結果に全て責任を持てるような成熟した人間に少しでも近づいていきたいと思うのは、俺なりの「本当のことを言う」ことなんだとひとまずブログで公表して、いつかは他の人に堂々と言えるようになりたいと思うのでした。

(あれ?結局最後は逃げてるんじゃね?とか思いつつ終)