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文字の洪水に溺れながら

人生初心者、でも人生のハードモードぐらいを生き抜きたい人間。

非キリスト教徒は何故、神学を学びえないのか

このエントリは大学の授業の聖書学概論のレポートをブログ用に加筆修正したものです。僕は大学生はもっと自分の学んだレポートを世間に示すべきだと考えているのでその取り組みの一つです。

はじめに

このレポートの主なテーマは非キリスト教徒は神学を学び得るのかという事である。授業の中では、聖書の中には事実と真実の2種類が存在し、歴史学的なアプローチによって事実が解明され、真実とは信仰のあり方の記述としてキリスト教徒が信じているものと説明された。
 授業では主に歴史学的な研究、すなわち事実に対しての学びが中心であったが、それは歴史学とどう違うのか。また、もし神学が真実について学ぶ、つまり信仰について学ぶものであるとするならば、非キリスト教徒は信仰というものを持っていない限り、神学とは学べないものなのだろうか。この疑問についてキリスト教徒という立場から調査し、記していきたいと思う。

神学の概観

 非キリスト教徒の私からすると、まず神学という時点でよくわからないというのが正直なところだ。そのため、まず、神学という物の概観をつかむために、基本的に神学の中にはどのようなカテゴライズがあるのかを記したいと思う。同志社大学、神学修士課程修了後に文筆家となった佐藤優によると、神学とは聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学の4つに分類分けがされるという。
 1つ目の聖書神学とは聖書について研究する学問であるとされる。2つ目の歴史神学とは主に協会史と教理史の2つの分野からキリスト教の歴史についてを解き明かそうとする学問分野であるとされる。この2つの学問は歴史学方法論、文献学、聖書考古学等が補助学として利用されているようである。これらの学問は補助学である限り、先述した事実と真実の話では事実を中心として考えられることが多いと考えられる。実際に聖書学概論で学んでいる事実的な要素はこの補助学から得られる知識であるように感じられる。そのため、それらは本質的には神学の補助学であって、神学そのものではない事に注意を払いたい。正式な神学である聖書神学や歴史神学はこれらの事実を元に真実を見いだすのである。
 残りの2つの説明に移る。3つ目の組織神学とは、神学体系について学ぶ学問であり、聖書神学や歴史神学から得られた成果に整合性をもたせる分野である。4つ目の実践神学とは他の3つと少し毛色が異なり、牧師神父のための神学である。ここでは牧会学という人間関係をケアするため勉強と説教学について中心に勉強されているという。ちなみに佐藤はこの実践神学こそがもっとも重要なものだと主張している。

神学者の神学への立場

 彼の非キリスト教徒の神学への立場は明確である。以下の言葉が彼の立場を示している。

神学のない信仰は存在はできる、だが信仰のない神学は、完全な語義矛盾である。『神』を信じていないのに、『神が存在する』という神学的命題を主張するのは、はなはだ不正実だからだ。信仰がないところにおいても宗教学やキリスト教学は成立するが、神学は成立しない。*1

 以上のように彼は信仰がなければ神学は存在しないと断言している。つまり、非キリスト教徒が神学を学ぶことは不可能であるとしている。これはいささか過激な意見と感じるかもしれない。そのために他の神学者の意見も参照したいと思う。

 元サスカチワン・ルーテル神学校学長であったW.E.ホーダーンは彼の著書現代キリスト教神学入門で神学、特に組織神学と実践神学についてこう記述している。

神学(theo- logy)には二つのギリシア語からできている。神を表すセオス(theos)と、言葉とか 合理性とかを表すロゴス(logos)の二つである。従って神学とは神に関するロゴスであり合理的な思索である。*2

この箇所をみると、ホーダーンは神学については 神に関して思索を深めることであると考えていることがわかる。特にキリスト教徒、非キリスト教徒といったくくりが現れていうようには思えない。だが、この文章の後をしばらく読み進めると非常に興味深い文章が現れる。

「現代を生きる基督教信者が 持つのは批判の試練に耐え、よく考え抜かれた神学であるか、それとも温情的な偏見に左右され、十分に批判的検討に耐えない寄せ集めの神学を持つかそのいずれかである。」*3

この文章は重要な意味を示しているように見受けられる。それは直接は書かれてはいないが、神学を必要とするものはキリスト教信者であるという前提が現れていることである。先述した佐藤のように、キリスト教信者でなければ神学を学ぶことはできないとまではホーダーンは言及していないが、神学というのがほとんどキリスト教信者によってキリスト教信者のために存在しているものであるという背景がこの文章からは捉えることができる。

キリスト教信者は神学は学べない

 これらの意見から考えるに、非キリスト教信者は本質的な神学を学ぶのは難しいと結論付けざるを得ないと私は考える。ただし、誤解してほしくないのは佐藤氏も言及しているように神学の中には、神学を助けるために存在する補助学が存在しており、そちらはキリスト教信者でなくても学ぶ事はできるという事実である。
 補助学の役割とは先述した真実と事実というカテゴライズの事実的な側面を色濃く表している。やっている事は歴史学と変わらない。そのため、ここの点(何年にこいつが何をしたとかそういう事の特定とか社会的背景の研究とか)を研究する上で信仰の有無は関係ないと結論付けて構わないだろう。歴史学、文献学等はまさにこれに値する。
 ただし、この補助学という役割は、他の学問分野の中では立派な1分野ではあるが、あくまでも神学的立場に立った時には、それは補助学という立場で受け取られてしまう。実際にルター派のオットー・アイスフェルト教授は

旧約聖書の神学的利用は歴史的理解を予想するがこの理解は旧約聖書をその環境の中に置きなおすことによって初めて可能となる。*4

と指摘しているが、この言葉は神学的利用が原則であり、これにより補助学の歴史的解釈が可能になると捉える事が可能であろう。つまり補助学に対して神学の優越性を暗示している。では、神学的立場から考えるときに補助学としての神学と本質的な神学とはいったい何が違うのだろうか。次はこの点に着目したいと思う。

歴史学と神学は神学的立場からは何が違うのか?

 ここの問いに向き合ったのが同志社大学名誉教授であり、近現代の基督教研究者の第一人者であった故森田雄三郎氏であった。
彼は神学を学ぶ上では信仰の実存性こそが重要な位置をしめると主張する。

神の啓示は象徴的・創造的に教会史(筆者注 教会史とはすなわち組織神学をはじめとする神学一般と捉えて構わないだろう)と信仰的実存の自己理解を包括し、教会史は神の啓示を展開し、信仰的実存は神の啓示を自己理解し、自己化する。
*5

この文章から森田氏が信仰の実存性により神学に神の啓示の自己理解化という意味が与えられている事がわかる。私は非キリスト教徒とキリスト教徒の本質的違いはこの信仰実存性の有無に他ならないと考える。非キリスト教徒にとっては神学(と同じことをしている歴史学)とは単に知識の獲得でしかない。しかし、キリスト教徒にとっては神学とは知識の獲得による自己の信仰しているもの(つまり神の啓示)の自己理解化、自己化に他ならないのである。
 この両者の立場には、自己化というプロセスがないという重要な差異がある。定義の問題ではあるが、神学という物を他の学問と同様に知識の体系化だけではなく、この自己化という物まで含むとするならば、確かに非キリスト教徒は神学を学びえないのである。なぜならば、キリスト教徒にとっての神の啓示の自己化とは個人の自由に属する問題であると判断し、ほとんどの場合は知識の体系化が学問であるとの考えに縛られているためである。

ただし、この思考は神学的傲慢さを生む原因となりえる事も最後に指摘しておかなくてはならないだろう。実際に森田氏はキリスト教徒の立場から自己批判を以下のように行っている。

この種の救済史(神学)は歴史学的批判に対して中途半端で曖昧な態度をとり、時には神学とは神について語る事を主要課題とすると主張し、また時には学としての普遍性を持つと主張して、自らに好都合な使い分けをする。今日の日本の神学的不毛の重大な一因は、教会と神学が学問的方法とその根底をなす学問的ロゴスの追求を軽視してきた点にある。*6

また同様にこのようにも指摘している。

史的イエスへの問いは明らかに、それがキリスト論の問題を目指す事が認められるときにのみ、神学的問いとして把握されたのである。*7

今後、もし神学という物が神の啓示の自己化という点を譲らずに、発展を行っていくのであれば、森田氏の指摘するように神学における学問的方法論をしっかりと議論、確立を行っていかなくてはならないであろう。

*1:佐藤優『神学部とは何か-非キリスト教徒にとっての神学入門』2009.6.1 新教出版社

*2:W.E.ホーダーン 布施濤雄訳 『現代キリスト教神学入門』1969.9.10 日本基督教団出版社

*3:W.E.ホーダーン 布施濤雄訳 『現代キリスト教神学入門』1969.9.10 日本基督教団出版社

*4:アンドレ・パロ 波木居純一訳 『アブラハムとその時代-聖書の考古学』1980.4.10 みすず書房

*5:森田雄三郎 『現代神学はどこへ行くのか』2005.3.27 教文館

*6:森田雄三郎 『現代神学はどこへ行くのか』2005.3.27 教文館

*7:森田雄三郎 『現代神学はどこへ行くのか』2005.3.27 教文館