文字の洪水に溺れながら

人生初心者、でも人生のハードモードぐらいを生き抜きたい人間。

読書録「理解とは何か」

目次

プロローグ(佐伯 胖)
1 理解の文脈依存性(村上陽一郎
2 算数・数学における理解(銀林 浩)
3 理解におけるインターラクションとは何か(三宅なほみ)
4 リテラシーの文化的起源(M・コール)
5 「理解」はどう研究されてきたか(佐伯 胖)
解題 人はどのようにして「他人の心」を理解するの(佐伯 胖)

読書感想

専門的で難しい本であった。
原因は専門用語によるものが大きい。
認知心理学の分野では一般的な用語でも、
門外男の自分にとっては意味がわからない用語の理解に苦しんだ。


たとえば「スキーム」などが専門用語の例としてあげられる。
スキームとは「単語群の意味のあるまとまり」を差し示しているようだが、
私はこの説明以上に本質的な理解ができている気がしない。
こういった言葉が出てくるたびに、いちいち引っかかりを感じてしまった。


字面的理解しかできていないのが原因だろう。
つまり、その専門用語が出てくるまでに、どのような理論が展開されてきたのか、
その言葉自体にどんな必要性があるのか、それがわかっていないのである。


ピアジェの発達心理学、チョムスキー理論、行動主義なども
同様の理由から、意味をわからないまま読み進めなければならなかった。



では、この本は読む価値がなかったのだろうか?



否、そうではない。
この本を読むことによって得た知識は確実に存在している。


「物の考え方」を考えているシステム
「物の考え方」を考えるためには外すことのできない要素

というこ2つの情報をこの本は与えてくれた。
そして、それは私が今まで全く咀嚼することのできないものであった。
全くわからない分野の話のとっかかりを私に与えてくれたのである。


たとえば、1章の「理解の文脈依存性」はわかるという瞬間を考察している。
本能的に「あ、わかったぞ!」と感じるあの瞬間である。
今までの自分であれば、それを科学的に説明することは不可能であった。


しかしながら、この本はそれを心理学的に以下のように説明する。


自らの体系化された知識という一種のパラダイムが人間の内側には存在している。
そして、そのパラダイムが外からの情報によって大きく変わることがある。
大きく変わること、とはその人の内側にあった既存の知識の体系を1から作り直すことである。
この知識の体系化の更新をパラダイムチェンジと呼び、
これが完了したことがあの「わかった!」という感覚をもたらすことである。


私の中では、この論の正統性が重要なのではない。
この論のように、一種考えることができないと思っていた
「考えること」をシステムとして考えることができていることが重要なのだ。


ということで、この本が冒頭で難しい本だと宣言したのは、
難しく読み応えがあるがゆえに、自らの栄養になる本であった、
という意味で捉えてもらえれば幸いである。



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以下、気に入(な)った部分の読書メモ


1 理解の文脈依存性(村上陽一郎
 上にて書いた。



2 算数・数学における理解(銀林 浩)


 A やり方がわかる
 B わけがわかる
 は小さい時は前者の欲求が満たされれば満足し、
 年を取るにつれて後者の欲求が上がっていく


 表面的理解か本質的理解かの違いは人に教えればすぐにわかる。



3 理解におけるインターラクションとは何か(三宅なほみ)
 2人で同じ問題を出されても、(ミシンの仕組みをわかること)
 「私が少し自分の考えを出す、あなたの考えもすこしもらう、
  そうやって二人でひとつの共通理解を作り上げる」
 ということにはなっていない。
 一緒に話をしているけれども、やっていることはまったく独立である。
 お互いに自分の問題を設定して、自分で問題を解いている。
 何かが出てきたときにだけ、相手(がいるから)に「こうなんじゃないか」と伝える。
 最終的なわかりかたは全く別になる、ただどちらもあっている


 2人で全く同じ仕事を均等に分配することがアウトプットの向上にはつながらない
 片方が作業を行い、片方がモニター(気づきを適切にFBする)役割のほうが向上する。



5 「理解」はどう研究されてきたか(佐伯 胖)
 理解の研究の主論
 情報処理レベル→深さ、浅さ 言葉という符号とどれだけ連想やイメージ必然性が結びついているか
 メタ認知→今、自分が理解度がどれくらいか、自分の置かれた立場(役割、責任)がわかっているのかが理解に繋がっている
 思考の文脈依存性→与えられた問題の文脈、何が問題なのか、なぜそれが問題なのかがわかっているか


 実験室と日常の理解の差