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文字の洪水に溺れながら

人生初心者、でも人生のハードモードぐらいを生き抜きたい人間。

ネット情報のカンスト→何を捨てるか

一日間違えて木曜夜なのにネットサーフィンをしてしまった。
そして、このごろネットサーフィンが終わったときに毎回思うことがある。
俺はなんて小さいんだろう、という思いだ。

これは決して素晴らしい景色を見たときに思う感動とか、神の様な能力を持った人をみたときに思うものではない。単純に自分の読める文章量の少なさに感じるだけだ。いいかえれば、なんてネットは大きいんだろう。つまりネットの圧倒的情報量に絶望して感じる思いだ。

少なくとも今回のネットサーフィンで50〜100サイトは覗き、そしてある程度は意味を理解する読みをした。中身はアニメ批評からビジネス論から現代社会論から日常の日記だ。だけども日本語で書かれたページだけでもこの数字は0.00001%にも及んでいない。
毎日万単位で情報は生産され、それはそれぞれがオリジナルのものだ。
これは少なくとも20世紀の資本主義を支えた大量生産とは一線を画している。
それは同程度の品質のコピー製品を作成して大量生産を可能にしていた。
しかしネットは効率主義でもなく機械化でもないのに大量生産だ、これはいったいどうなっている?
このレベルで情報が増殖していったときにいったい何時ぐらいになったらカンストをおこすのだろう?きっと、カンストは発生しないであることが一番可能性が高いのは間違いないけれども、情報識別能力をいくら鍛えたところであまり役に立たなくなってしまう程度に情報が氾濫を起こすのはそう遠くはない気がする。てか、もはや個人として扱える量の情報はカンストしてるよ、俺の中では。
そういう意味でそろそろ情報識別能力以前の問題で情報を捨てるということが切実になってくるのではないか(もしかしたらそれが情報識別能力っていうのかもしれないけど)、一時期掃除をする力=捨てる力ということが話題になったけどそれが情報にも確実に当てはまっていくと思う。


じゃあどんな情報を捨てれば良いんだろうか。

ネット上で作られている情報はたぶん大別して2つだ。
他人のために作っているか
自分のために作っているか

この中で俺は自分のために作っているのは捨てて良いんじゃないのかと考える。
中には二つがミックスしてるものがあるけど、この場合はグレーゾーンとして放置。
まぁ、そのグレーゾーンで初めてリテラシー能力を使えばいいんじゃないのかな。


正直いくら有益であろうと自分のために作っている情報は読みづらいし、情報の質が薄い。
自分のために作っているという意味は公開日記とかを想定して書いているけど、どちらかというとコミュニケーションの道具としての役割のため、使い捨て感が強い、これはもはやメールと一緒だよね、正直このタイプのブログとかはサーバー側が1年前のものとかは消してしまってもかまわないんじゃないのとまで思う。本当に見直してそのときの思いが伝わってくるのは公開すらできない本音を書いた日記の方のはず、ましてや自分以外の人間が他人の1年前の公開日記なんかに興味はない。

一方他人のために作っているのは簡単に内容が濃い情報をてにいれられる。
しかも、他人を意識しているから読みやすい。
ネットをする(何かの情報を求める)上でわざわざ低い確率の自分のために作っているものを探す理由が俺には見つからない。宝くじみたいに数は少ないけど当たりはでかいんだよ!!というなら話は別だけども残念ながらそういうことはほとんどない、むしろ他人のために書いてあるほうが面白いことのほうが多い。

まぁ、人の生産性ない日記かいてるのを見るのがすきなんだよ!という人がいるのは別に悪いことじゃないし、否定するつもりも無いけど、限界性っていうものを意識しちゃうと俺はそれができなくなっているだけなんだけどね。ある意味追い立てられているよりもそっちのほうがよっぽど有意義なのかもしれないし。

とりあえずこの情報氾濫過ぎる時代の風潮は止まりそうにないので自分で仮想的にでも情報を消していくしかないよねとかそういう話でした。