文字の洪水に溺れながら

人生初心者、でも人生のハードモードぐらいを生き抜きたい人間。

アイゼンフリューゲルを読んで、これは確かに今までの虚淵作品とは違う

twitterで水音さん(http://ilya0320.blog14.fc2.com/)からお勧めでアイゼンフリューゲルを読み終わった。

アイゼンフリューゲル (ガガガ文庫)

アイゼンフリューゲル (ガガガ文庫)

アイゼンフリューゲル2 (ガガガ文庫)

アイゼンフリューゲル2 (ガガガ文庫)

この物語は「空」での「速さ」に取りつかれた主人公のカールが、その事実を許さない「周りの環境」とどう折り合いをつけるのかという話だ。
んで上記の「」の部分がこの物語のキーワード

戦争が話の半分以上に食い込んでくるのでいつもの虚淵作品と思いきや、読了後の感想はなんか違う。ネットを見ると虚淵作品の良さは硝煙の匂い立つ感じと思われがちのようだが、それは僕の中では違って、虚淵作品の良さは犠牲を基に世界は新しいフィールドに立つという圧倒的なリアリティに他ならないと思っている。

沙耶の唄は、日常の世界を犠牲にしてヒロインとの関係性を獲得した。
ヴェドゴニアでは人間としての自分を犠牲にして他の世界の日常性の維持を。
鬼哭街では自らの犠牲によってヒロインの命を。
FATEZEROではヒロインやら自分の人間性やら、家族との関係やら、様々を犠牲にして願望の答えは叶わないという答えを獲得。

このように虚淵作品は何かを犠牲にして何かを獲得してきているように僕には感じられる。
そしてそれは非日常の世界を語る創作なのに、いや、非日常な世界のなかでも現実という日常性の中で幅を利かせている理論がそのまま通用している事によって僕はリアリティを感じてきた。

だからこそ虚淵作品は他のエロゲーのようにトゥルーエンドと呼べるようなものがないし、それで良いと僕は思っていた。そしてそれこそが虚淵作品を楽しむための鍵だった。主人公に感情移入し、とるべき手段は最善だったとしても結果は最善にならないという絶望を感じ、それと同時に一種の、これでいいんだという諦観を感じれる作品として、僕の中では虚淵作品は比類ない存在だった。

だけれどもこのアイゼンフリューゲルにはこの諦念の感情が抱けなかった。だからこそ、今までの虚淵作品とは一線を画しているようにしか思えなかった。

物語の主人公のカールは物語の後半で結局自分の欲求を最も高次の目的としてしまう。理屈は別に良い、要するに自分が行きたいと思ったら行け、この感情はわからないではないが、自分はここまで突き抜けることができないと違和感を感じてしまった。だからこそ、そこには物語の中にリアリティを感じることはできなかったし、すこし白けてしまった感は否めない。

そしてヒロインとの関係も少し物足りなかった。
この物語は典型的な
1、主人公の能力の傑出ぶりによる成果
2、過去のトラウマなどによる主人公の堕落
3、自己と向き合うことと「ヒロインによる協力」による回復
4、華々しい復活劇
というストーリーに序盤から中盤まではなっている。

しかし実際は3の時点の回復は全回復ではなく応急処置であって、4の後に5としてもう一度自己との向かい合いを経て本当の答えの獲得へという構造になっている。
だが、それは3の時点で得た答えの否定にほかならず、5の時点でヒロインとの関係性を完全に捨て切ってしまっている。これが自分の中でのヒロインとの関係の不満につながっている気がする。

と書いていて思ったのだが、ならこの物語はやっぱりヒロインとの関係性を犠牲にして自らの欲求を肯定しているという最初に否定した犠牲の後に新たなステージに立ったという構造になっている。あれ?じゃあ、なんでこんな違和感感じるんだろう。

・・・・あぁ、なんとなくわかりました。
今までの虚淵作品は犠牲となっていたのは圧倒的に主人公サイドで、新たなフィールドに立っていた主語が主人公以外になっていたからなんですね、だけど今回は他者に犠牲を強いて、主人公自身が新たなフィールドに立ってしまっているからこそ違和感を感じてるのか。要するに自己犠牲成分が圧倒的に今までと比べて少ないようです。そして、それが自己投影の邪魔をしていたんですね、僕はどうしてもこういう他人よりも自分を優先してしまうと寝覚めが悪いと思ってしまう性質なので。

んー、それが別に悪いというわけではもちろんないわけですが、今までの虚淵作品とは確かに違いました。ただいつものごとく機械の書き方とかそこら辺は格好よさがビシビシ伝わってきて面白かったですが。